江戸時代・徳川幕府の直轄事業・銀貨を製造をしていた銀座
銀座のクラブの歴史を語るなら・・・
江戸時代からの銀座のお話に遡らせていただきましょう。
江戸時代に「銀貨幣鋳造所」(銀貨を製造)を作っていた場所のことを「銀座」と言いました。
当時、幕府直属の銀座は、現在の静岡県に置かれていたのですが、1612年に江戸に移転。
銀座は、江戸、京都、大阪、長崎にも設置されていましたが、1800年に江戸に統一されました。
幕府崩壊によって、明治2年に「銀貨幣鋳造所」としての銀座は廃止され、正式に当時の町名(新両替町)に変わって、銀座は町名として使われるようになりました。
当時の町名は新両替町と呼ばれていました。

銀座発祥の地の石碑はティファニー銀座本店(銀座2丁目)のあたり
現在の銀座四丁目の交差点の近隣は、江戸時代から国内で最も地価が高いエリアだと言われています。
銀座には高級クラブが多いことで知られていますが、「元々お金を作っていた場所に、現代になって高級クラブが増える」というのは、銀貨というお金を作っていた場所でもあり、少なからず景気の良い場所としての認識が出来上がっていたのではないでしょうか。
お金が作られるということは、お金がたくさんあるというわけで、お金をたくさん持っている人達が集まることは必然であったのではと思わせられます。
ということですから、高額なお金が使われやすい場所として定着していることは不思議ではありませんね。
この土地柄に定着した認識が、のちの高級クラブを存在させるに至った原点とも言えましょう。

銀座巻物(出典:国立国会図書館所蔵)

大災害を経て復興へ。
まさに破壊と再生によって今の銀座が創りあげられた事実。
クラブが誕生するに至った銀座。
きっかけになったものとは?
「銀座という地域自体」を発展させるきっかけとなった事件の一つに「火事」がありました。
1657年の通称「明暦の大火」、1872年の通称「銀座大火」。
当時はまだ「木造家屋」がメインだったため、幾度となく小規模の火事が起きていました。
しかし1872年の銀座大火は「銀座全体が消失した」と言っても過言ではないくらいの、大きな被害となりました。
この被害をきっかけに「さすがにそろそろ火事が起きないような銀座を作りたい……」という動きが、明治政府主導で沸き起こり、通称「銀座煉瓦街」計画が立ち上がります。
その計画は、1877年頃に実現し完了したことで、交通面も比較的便利になり、商業も大いに盛んになりました。
計画が成功したかどうかは、銀座がどんどん発展していき、多くの人々が集まるようになったことが何よりの証拠でした。
後年1923年の関東大震災によって、大きな被害を受けるのですが、「煉瓦街」の建物の1階部分の多くが無事だったようです。
そのため、銀座が復興するのに、さほど時間がかからなかったのだとか。
つまり、明治の初期頃から、銀座はどんどんお金持ちが集まるようになって、豪華になっていった・・・
という流れが見受けられます。
いよいよ、高級志向の人々が訪れたくなるクラブっぽいものを置ける雰囲気になってきたと言えるのではないでしょうか。
2日間に渡って燃え続け、江戸全土の約6割が消失し、死者10万人以上を超える大惨事となりました。
そして、復興にかかった費用は膨大さゆえ、幕府の財政を悪化させることとなったのです。
1657年の明暦の大火は、1666年のロンドン大火、1664年のローマ大火と同規模として、歴史上世界三大火災の1つとされています。

銀座のカフェー・タイガー(出典:大東京写真帖 1930年)
現代のクラブ!?
銀座に、カフェーが登場
接客がビジネスに!
たしかな賑わいをみせた銀座。
昭和初期には銀座に「ネオン街」ができていったと言われています。
つまり、夜に人通りが多くなってゆく、歓楽街エリアが構築されていいたのです。
このエリアにできた、高級志向のお客様が集まるお店がのちの「クラブ」に発展していきました。
「ネオン街って戦後以降にできたものじゃないの?」と思っている人が多いと思いますが、さまざまな文献によると、そうでもありませんでした。
そして、この頃には「お酒や女性に癒されたい」という男性の願望が、かなり叶いやすくなっていたのだと言えるでしょう。
大衆に望まれたということでしょうか。
(そもそももっと俗っぽい「ホストクラブ的なお店」は、江戸時代の頃には既に存在したと言われています。遊郭などは有名ですよね。)
ところで昭和初期~戦前頃の銀座などでブームになっていたのが「カフェー」です。
これは現在の「喫茶店」とは少し雰囲気が違いまして、アルコールも普通に提供していました。
そして、当時のカフェーと言えば【カフェータイガー】というお店が有名でした(1924年開店)。
この頃から、現在の銀座の高級クラブの定義となる、基礎概念が確立し始めてきたのではないでしょうか。
カフェータイガーのアピールポイントの一つが「女性給仕の濃いサービスと美貌」だったそうですから、現代の銀座の高級クラブにも通じる部分があります。
ちなみに「女性給仕」のことをホステスと呼ぶ場合もあったそうです。
これはもう、ほとんど現在のクラブだったと言っても良いのではないでしょうか。
また、「カフェータイガー」のホステスさんは、30名ほどの女性が在籍していたようで、ほとんどが16~25歳くらいの女性であったそうです。
現代で言えば、中箱規模の店舗の広さくらいに相当するようですね。
現在の高級クラブのホステスさんの平均年齢は、20代半ばくらいの女性が在籍しているお店が主流ですが、当時は、10代半ばになれば一人前という風潮が強かったようで、「カフェータイガー」のホステスさんは全体的にかなり若かったそうです。
余談ですが、現在では18歳以上(店舗によっては20歳以上)でないとクラブで働くことはないのでご注意願います。
ちなみに、「カフェータイガー」には、ライバル店が存在していました。
それは「カフェーライオン」というお店です。
この「カフェーライオン」も当時かなり有名だったとのことです。
「タイガーとライオンのどっちが勝つんだろうね?」
と、銀座エリアを知る多くの人々から注目を集めていたそうです。
さらに言うと、1928年の有名歌唱曲である「当世銀座節」では両者を指して「虎と獅子」という歌詞が出てきました。
勝敗の行方ですが、当時カフェーライオンはホステスさんに対する扱いがスパルタ(雑で厳しい教育)で、ちょっとしたことでホステスさんを解雇していたようです。
カフェーライオンを追い出されたホステスさんは、どんどんカフェータイガーに流れていったのだとか。
そして「虎VS獅子」の争いは獅子(カフェータイガー)の勝利となったそうです。
現在、銀座の高級クラブの多くは「初心者歓迎」「業界未経験者歓迎」のところが多いなど、全体的に見て「ホステスさんにかなり優しい」という雰囲気のように思われます。
しかし現在、実際に繁盛している高級クラブでは、採用時点で、厳しい採用基準に沿って女性を採用していることもあり、ホステスさんに(スパルタ)厳しくする必要がないというのが、実情とも言えそうです。
いわゆる、現在の銀座の有名高級クラブでは、採用する際の人を見るレベルは、かなり高いと言えましょう。
つまり、当時のカフェーライオンは、採用については比較的甘く、年齢をクリアした女性であれば、誰でも採用された傾向にあったのではと推測できます。
さて、カフェータイガーの常連客は、当時の作家である永井荷風が有名です。
永井荷風は、親しくなったホステスさんに500円(現在でいう200~300万円程度)をせびられた経験があるそうです。
彼がそのホステスさんにお金を渡したかどうかは定かではありません。
後年、永井荷風はカフェーをテーマにした小説を出版。
その小説に記されている内容によると「カフェーが好きでもあるし、嫌いでもあるぜ!」という気持ちを抱いていたそうで、なんとも複雑な想いの中でカフェーに通われていたのではと思われます。

永井荷風 (出典: Wikipedia )
現在、高級クラブ等で、大金を使うお客様達は、自らが好きで払っていることは確かです。
高級クラブで数百万円(一度の飲食代金で)使うお客様も少なくはありませんので、現代においてもこういった富裕層に、お金をせびるホステスさんがいるかもしれませんが真相はいかに・・・。
ちなみに、1929年における調査では、銀座にはカフェー(バーも含む)がおよそ600店ほどあったとされています。
ただし、当時のカフェーのほとんどは「アルコールや料理なんて申し訳程度でいい!とにかく美人店員だ!」というノリだったそうです。
現代の高級クラブのような「ボトル1本で日本人の平均月収が飛ぶ!」というようなお店は、ほぼなかったのではないかと推測されます。

銀座四丁目交差点 1958年
第二次世界大戦後の銀座のクラブ
戦後の復興によって
さらに活況となった銀座。
第二次世界大戦が始まってからは、さすがに銀座の煌びやかさも失われていってしまいました。
東京大空襲が原因で、東京は壊滅状態になりますが、銀座7~8丁目辺りは比較的建物が残ったので、そこから銀座は復活していきます。
終戦記念日は皆さんご存知の通り、1945年8月15日ですが、それからわずか1年後の1946年には、銀座に少しずつ高級志向のお店が誕生しています。
これらのお店は大半が米軍関係者が主なお客様であったようです。
その後、1964年頃のみゆき族、1970年の歩行者天国、1971年のマクドナルドの開店など、銀座の勢いはどんどん高まっていきます。
60~70年代の出来事をザっと挙げたところ、クラブとはあまり関係しませんが、こういった経緯自体も現在の銀座エリアの地位を押し上げ、そこに店舗をかまえる高級クラブとしてのイメージを形作った理由となったはずです。
なにせ、当時の米軍関係者それぞれの、懐(ふところ)事情については想像に難くはありませんし、経済復興に関わった方々は、一種のバブル景気の最中にあったとも言えるでしょうから、経済的にかなり豊な人々が、銀座という地に向かってこぞって訪れたというべきでしょうか。

銀座 数寄屋橋 1958年
ところで、1964年頃から勢いを増しはじめた「みゆき族」は銀座の歴史上では、ほんのわずかな期間の存在でしたが、戦後の日本のファッションの流れや、ストリートカルチャーを形作ったきっかけとの声も。
実際、当時のみゆき族は不思議な存在感を放っていたようです。
当時「みゆき族」というのは、現在の銀座の「みゆき通り」に集まって「俺たちは自由だ!」という精神のもとに、イマドキ(その頃のですが)のファッションなどを楽しんだり、街をただ歩いていたりした人々のことです。
既成の秩序などにとらわれずに、自由な考え方を行動で示してきた人々に命名されたようですね。
彼らは比較的、品行方正だったと言われていますが、1964年は東京オリンピックの年ということもあり、警察の取り締まりによって姿を消したようです。

「みゆき族は年内に始まって、年内に終わったブーム」とも言えそうですが、みゆき族の思想や影響は、その後の日本全体に影響を残しました。
1998年に銀座には「銀座ルール(銀座の景観を守ることなどを目的とした、建築物に関する銀座独自の規則)」が作られました。
銀座の地は、
銀座を愛する人達が「自分たちでしっかりした地域にしていこう」という意識が非常に強く、その証拠として銀座の街全体が本当に美しいです。
たとえば、並木通りの綺麗な歩道や、整備された銀座通りに、その情熱が示されているのがわかります。
高級クラブが入っているビルや周辺もとても綺麗です。

銀座 歩行者天国 1971年
銀座が各分野の高級志向の代表格として独自のポジションを築き始める
現在の銀座としての地域独自の
特色は1970年代から築かれていった。
1970年代前半頃には、「大衆的な要素も考慮し、トータルで見た場合の繁華街」の座は徐々に「新宿」に移っていきます。
そして、「若者の街」としてのポジションは「原宿」や「渋谷」に移り始めてゆきました。
そういった時代の流れの中で、銀座は「高級志向の街、高級クラブなどがある夜の繁華街」というポジションを他の地域に譲ることなく確立していきました。
また、高級志向の商品を取り扱う高級百貨店や、海外高級ブランドショップなど、一流企業なども増え始めてきました。
つまり、新宿、渋谷、原宿などのそれぞれの地域性が、独自に一層進められ、銀座、新宿、渋谷、原宿などとの住み分けが進み、特色というものが確立していったのです。
銀座が銀座らしい特色を持つ街となったのは、この頃とも言えるのではないでしょうか。
実際、クラブの数は、この時期からどんどん増加していき、1980年代後半~1990年にピークを迎え、その数は大小合わせると約3000店にまで膨れ上がりました。
また、この頃はバブル期のピークとされた時期でもありますし、一気に高級クラブが増えるのも頷ける理由でしょうか。

バブル崩壊後の閑散市場 (出典:ジャパンアーカイブズ) 1992年
銀座高級クラブが減り始めた!?
経済の動向によって
銀座の街は影響を受けやすい!?
1991年~1993年頃にバブルが崩壊し、そこからは徐々に銀座の高級クラブの数が減り始めます。
バブルが弾ける前までは、盛んにテレビや新聞などで「不動産の価値がすごい!ホントにすごい!」と伝えられていました。
客観的で冷静な経済感覚を持ち合わせていた当時の人は「ここまで極端な土地価格の上昇はちょっとマズいんじゃないかな・・・」と警鐘を鳴らしていたとも。
そうこうしているうちにバブルが崩壊。
それは「経済レベルが下がる人が増加する」ということです。
つまり「高級クラブに通っている方々」という「お金のかかる遊び」を楽しむ人が一気に減少することになります。

日本経済新聞 2008年10月27日
バブル崩壊後に少しずつ景気が回復していくわけですが、2008年に起きたリーマンショックの影響で、さらに銀座の高級クラブは減少していったのです。
そして、現在に至るわけですが、今は銀座にはクラブが約1500店ほどあるとされており、全盛期の半分くらいとなりました。
むろん正確に比例しているというわけではありませんが、「景気が良くなれば銀座のクラブは増え、景気が悪くなればクラブは減る」と言えるのではないでしょうか。
今後、銀座の高級クラブは増加するのでしょうか。

東日本大震災 2011年
東日本大震災と銀座の高級クラブ
社用族が激減されたとする
2011年。
景気とは直接的な関係のない出来事によっても銀座のクラブは減少しました。
それは、2011年に起きた東日本大震災です。
「銀座のクラブの常連」と言えるような会社の上役などの多くが、震災後の特殊な対応をすることになり、なかなかクラブを訪れなくなったとされています。
震災だから、遊んでいるのは不謹慎だ・・・。
という世間のムードによる影響もありましたし、仕事の延長線での接待絡みのお仕事だとしても、不謹慎ではないかと誤解を招くとされ、自粛ムードが強くなっていった為です。
こういった世間の潮流によって、高級クラブのみならず「大金を使う娯楽」に興じる人は少なくなっていたとされています。
同年のゴールデンウィークくらいには、自粛ムードも比較的やんだわけですが、客足が戻らないクラブが少なくなく、店舗の閉店が後を絶ちませんでした。
高級クラブを経営できる人は、得てして能力が高かった傾向であったでしょうから、他業種に活路を見出したオーナーも多かったとのことです。

GINZA SIX
現在の銀座
これからも進化する銀座の街。
銀座の一角に夜の繁華街がある不思議な街。
バブルが崩壊した頃からはいわゆる「ニュークラブ」と呼ばれる、高級クラブに比べてリーズナブルなお店が増えるようになりました。
実際、高級クラブではなく、そういった大衆的なお店に流れた、お客様も多いとのこと。
しかし裏を返せば、バブル期のような景気ではないとされている、現在の日本の経済事情であっても、立派に経営が成り立っているのですから、銀座の高級クラブが持つ経営センス、ポテンシャルは計り知れないと言わねばなりません。
特にバブル崩壊以前から、営業を続けているクラブの「底力」は流石と言わねばなりません。
お一人様が支払う平均客単価は数十万円以上。
そして、ホステスさんのお給料も平均30,000円~50,000円とも。
クラブに必要とされている要素は多岐にわたり、ときには娯楽。
ときには、仕事上の接待。
時には、プライベートで。
寛ぎと癒しの空間として、おもてなしの時間を提供する。
各人の訪れる理由はさまざま。
銀座の中心地にある、アミューズメントのエリア。
まさに日本の文化とも言えるでしょう。
ちなみに、銀座の老舗高級クラブは、バブル崩壊時なども客足が落ちることはなかったとのことです。経済的危機があっても財政的にビクともしないお客様が多かったということでしょう。

まとめ
銀座高級クラブ・ホステス志望者の未来は明るいのではなかろうか!
貴女へ自信をもってオススメする街
それが銀座。
まとめると
1612年に江戸に銀貨幣鋳造所・銀座が置かれる。
↓
大火事で復興を繰り返し、江戸が発展していった。
↓
明治2年(西暦1869年)は幕府の崩壊によって、銀座が町名になる
↓
1920年代にカフェーができた
↓
戦後に現在の高級クラブのような高級志向のお店が誕生
↓
経済的危機を体験
↓
現在
となります。
今後、銀座の高級クラブ界隈がどうなっていくのかは、景気次第と言えなくもありませんが、時代の景気とは関係なしに、ビジネスで成功している方々の存在こそが、銀座(銀座の繁華街)を活況に導いていると言っても過言ではないはずです。
そして、だからこそ、景気の良いエリアに人が集まりたくなる真理と、そこに抗えない魅力が生まれるのではないでしょうか。
つまり、銀座は今後も発展し続け、さまざまな魅力を伝えてゆくでしょう。
銀座エージェントは、銀座の高級クラブは、まさに日本を代表する文化の1つだと確信しています。
貴女にも銀座の魅力を知っていただきたいと思っています。